長崎県・波佐見焼

第一話

そこは大地がつくった、 小皿のような町でした。

東西10キロ、南北7キロ、周囲は33キロほど。まわりをかこむ山々を発した多くの小川が、中心にむけて流れこんで、合流している。その川沿いに人の暮らしや営みがあって、あちこちにレンガでできた煙突が立っているのも見える。海のイメージのつよい長崎県にもかかわらず、ここは海のない内陸。京都のような「盆地」だと案内されたものの、20分もあれば東のはじから西のはじまで車で走れる距離感からは、お盆ほどの大きさは感じない。この小さな町が、多くの茶碗やお皿をつくって、日本の食卓を支えてきたとは、あまり信じられない。

数千万年前、まだ日本列島がその形をなしていない頃にできた地層に、数百万年前、マグマの貫入によって、流紋岩が形成。それがさらに熱水による作用で、陶石へと変質。のちに磁器の原料となる陶石脈が、この地域の山々には豊富にあった。約一万年前から、人間がこの地に暮らし始めているが、近隣の山に、その有益な鉱物があると気づいたのは、約400年前。川原で白い石をみつけた人が、その上流へさかのぼり、その鉱物資源をみつける。三つの細い川が合流することから「三股」と呼ばれていた地域だった。人々は白い石を採り出して粉にし、器の原料として使い始める。こうして窯業という営みが、山あいの複数の集落でスタートする。

三股採石場

なかでも、1600年代半ばから、この地域でいちばんの焼き物の産地になったのが、三股の隣りの谷、「中尾」と呼ばれる集落だった。美しい器の素材となる石は、村の岩山から採った。石を粉にする臼を動かすために、水車で川の流れを使った。山に自生するマツなどの木々を、窯で燃やす薪にした。各地から資材を取り寄せるようになる以前の時代、焼き物は、この土地の風土そのものだっただろうと想像する。当時、内乱で輸出を止めていた中国の陶磁器の代わりとして、世界の貿易商人たちがこの地に目を向ける。山深い郷で焼かれる焼き物は、海を越えて、世界にも運ばれた。

160メートルの登り窯

旺盛な海外からの需要がおさまった後は、江戸時代の社会の安定によって、日本各地でも陶磁器の需要が生まれる。つぎは日本の庶民が、毎日の暮らしのなかで使う茶碗を求め、この土地はそれに応えた。江戸時代後半の中尾では、全長160メートルに達する登り窯があり、1,000人以上の陶工たちが年間200万個の器を生み出していたという記録が残っている。工程を手分けして技と効率を高め、多くの窯が昼夜を問わず炎と煙をあげ、製品を焼成し、量産する。その光景は小さな産業革命のようだったのではないか。俵いっぱいに詰められ、馬に載せられ、有田の町を通って、伊万里の港から海路で全国へ。この村が量産する茶碗やお皿が、日本中の食卓へ届いたのだった。

伊万里港

しかし、ここでつくられた器を愛用しながらも、当時の人々は、この産地のことをまだ知ってはいない。伊万里から運ばれてきたものだ。有田のほうでつくられたものらしい。人々がこの土地の名「波佐見」を知ることになるのは、まだずっと後のこと。

参考文献

  • 奥川光義 2002 『波佐見二十二郷の風土記』波佐見史談会

  • 波佐見 中尾山のあゆみ実行委員会 2018 『波佐見 中尾山のあゆみ』

  • 波佐見町歴史文化交流館 2023 『波佐見町歴史文化交流館常設展示図録』

取材協力

  • 西海陶器株式会社

  • 伊万里市陶器商家資料館「丸駒」

滋賀県・琵琶湖の真珠

Fun Japan Communications が主催する、 未来を耕すプロジェクト

SNS

最新情報を受け取る

Credits
クリエィティブディレクション
宮田識(DRAFT)
クリエィティブディレクション
鈴木佐知子(Fun Japan Communications)
ECディレクション
山科綾(Fun Japan Communications)
コピーディレクション
ChiHaru
コピーライティング(波佐見焼)
梅田大輔
コピーライティング(琵琶湖)
須藤みちる
翻訳家
細谷由依子
アートディレクション・グラフィックデザイン
齊藤純
コンセプトムービーイラストレーション
岡室健
グラフィックデザイン・イラストレーション
山川鎌(DRAFT)
テクニカルディレクション・ウェブエンジニアリング
勝目祐一郎
エグゼクティブプロデュース
井上邦彦
プロデュース
中村光孝
トラフィックマネージメント
山川鎌(DRAFT)